「源氏物語」より遠い昔の日本のお化粧、どんな成分が使われていたの?

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「源氏物語よりも古い」メイクの歴史

 貴方は博物館や遺跡を訪ねるのは好きですか。土の中から出てきた食器や装飾品、有名な戦国武将が想いを綴った手紙、人間にも動物にも見える不思議な人形など、1つ1つは小さなものでも、まとめて眺めると当時の人々がどのように暮らし、考えていたかを窺い知ることができます。化粧品もまた興味深い展示物の1つで、当時の文献やパッケージ、新聞広告などを眺めることで、時代ごとの「美しさ」「格好良さ」の基準の移り変わりや技術の進歩を窺い知ることができます。

 ところで、私達のご先祖様がいつからメイクをするようになったか、貴方はご存じでしょうか。実はその歴史はとても長く、約1800年前の弥生時代、中国の文献に記載された日本には既に身体を赤く塗ったり、お歯黒をしたりする日本人の姿がみられます。また、その後の飛鳥時代には中国から白粉が伝わり、顔を白く塗ったり、差し色として口紅やチークを塗ったりしていたことが記録に残っています。そして、今年の大河ドラマの舞台となっている1000年前の平安時代には、既に化粧は貴族の嗜みとして、男女を問わずすっかり定着していました。

日本の最古のメイク「赤化粧」

 日本最古のメイクは縄文時代や弥生時代に身体を赤く塗る、「赤化粧」からスタートしたと言われています。赤は太陽や血を連想させる特別な色で、当時の土器にも赤土を用いて着色したものが多くみられます。赤土は今日でも赤色顔料として利用されている酸化鉄、ファンデーションの原料として利用されている粘土鉱物が豊富に含まれており、精製や調合の技術が未発達であった当時、肌につけるだけで利用できる手軽なメイクアップ化粧品として利用されていました。また、鉱物の産地の近くではより赤が鮮やかな辰砂(硫化水銀)や酸化鉛などが用いられたこともあったようです。辰砂は水銀由来の成分ですが、反応性に乏しく、毒性があまり高くないため、塗料や顔料として用いられたものが遺跡からしばしば発見されています。

 この頃のメイクは美しく「魅せる」よりはむしろ、呪術の一環として行われていました。赤化粧は男女を問わず行われ、太陽のパワーを身にまとう意味が込められていたようです。尚、海外に目を向けると必ずしも世界のトレンドは「赤」一色ではなかったようです。イギリスでは男女を問わず肌を藍染めにしていたり、ギリシャやエジプトでは女性の美白がもてはやされ、早くから白粉が流行っていたりとその土地ならではの化粧が行われていた記録が残っています。また、ギリシャやエジプトでは地中海地域の特産物、オリーブオイルを使ったスキンケアも早くから盛んで、その方法は今日でもエステなどで取り入れられています。

「白粉」を使ったメイクの始まり

 初めは呪術の意味合いが強かったメイクですが、時代が進むにつれて、少しずつ今日のような「より美しく魅せる」目的でも行われるようになりました。その手段として用いられたのが「白粉」です。農作業で日に焼けた肌が一般的だった当時、白く透き通るような肌は美しく、また身分が高いことの象徴でもあったそうです。当初はハマグリやカキ、ホタテなどの貝殻を砕いたものがよく用いられ、特に白色度の高いハマグリは貴重なものとされていました。貝殻と聞くとやや原始的にも聞こえてしまいますが、主成分である炭酸カルシウムは今日でも化粧品の白色顔料、体質顔料としてメイクアップ製品ではお馴染みの存在です。また、貝殻以外ではやや白さには劣りますが、米粉を使った白粉も使われていたようです。

 その後、飛鳥時代になり、海外との交流が少しずつ増えてゆく中で、鉛白や塩化水銀を使った白粉が中国より輸入されます。これらの成分を使った白粉は延びやすさやカバー力に優れていたため、高価であったにも関わらず、貴族の間でより一般的なものとして広まります。また、鉛色の白さは他の色をよく引き立てたため、赤を使った口紅や頬紅などのポイントメイクが流行し、人々の化粧の幅は大いに広がりました。鉛白や塩化水銀は今日ではその毒性が明らかになったため、化粧品への利用は禁止されていますが、古代から近代までの長い間、メイクアップ製品の成分の主役として利用され続けてきました。

「赤」「白」「黒」で彩られたメイクの世界

このように、「源氏物語」より昔の日本では今日とは価値観こそ大きく異なっていたものの、私達にとっても馴染み深い成分を使ったメイクが行われていました。「赤」と「白」、そして髪の毛や当時虫歯予防の意味でも盛んであったお歯黒の「黒」の3色を基調とした組み合わせが当時の定番であったようです。今日のメイクと比べると色がやや寂しい気もしますが、月夜に照らされて、あるいは僅かな灯りだけを頼りに、といった状況を考えると、美しさをアピールするためにはそれだけで十分だったのかもしれません。カラーコーディネートもヒスイやメノウといった色鮮やかな装飾品、もう少し時代が下ると十二単衣のような派手な衣装があったので、太陽の下でもモノトーンになることはなく、十分に映えたことでしょう。1000年前は遠い昔の世界のように思われますが、そこには私達と同じような人々が実際に生き、同じようにメイクやファッションに気を遣い、愛を育んでいたのです。

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