「ベストコンディション」の難しさ
あれほど準備を重ねたのに、会場の雰囲気に吞まれて普段の力を出せなかった、いつもは難なくこなせる仕事なのに、今日に限って体調不良で上手く行かなかった、そんな経験は誰にでもあるでしょう。一度きりなら悔しい想いで済みますが、それが続くとすっかり自分を見失い、スランプに陥ってしまうこともあるかもしれません。長く活躍し続けるためには、実力を磨き続けるのと同時に、実力を発揮できる「コンディションを保つ」こともまた重要です。
ベストコンディションの大切さは化粧品においても同様です。美しく魅せたい、肌に潤いを与えたい、シミやシワを予防したい、化粧品には様々な想いを叶えるための成分が含まれていますが、環境の変化で実力を発揮できないことがあります。中でも大事な要素の1つが「pH」と呼ばれる数字で、多くの成分には最適に働くことができる範囲が存在します。しかし、pHは必ずしも安定ではなく、様々な原因で変化してしまいがちです。
不安定な「pH」
pH及び酸、アルカリの定義については以前の記事で溶液中の水素イオン濃度であること、pH7(中性)を境にそれより低い場合が酸性、高い場合がアルカリ性であることを紹介させて頂きました。一般的な化粧品にとって望ましいpHは2種類存在し、肌本来の環境に近く刺激が少ないpH4.5~6のいわゆる「弱酸性」の範囲、他の成分と反応しにくい「中性」、皮脂を落とすのに必要なpH9.0~11.0の「アルカリ性」が挙げられます。そして、多くの成分がこの3種類に近いpHで効果を発揮するように設計されています。
しかし、化粧品に利用される成分の中には強い酸性(もしくはアルカリ性)を示すものがあり、pHに大きな影響を与えます。例えばオールインワンコスメのとろみ成分として有名なカルボマーについては、1%水溶液でpH3.0と強い酸性を示すため、有効量を化粧品に配合した場合、最適なpHの範囲から大きく外れてしまいます。その上、カルボマー自体が強酸性ではとろみを発生させないため、そのままでは利用できません。
強酸性のpHを弱酸性に近づけるためには濃度を下げるかアルカリ性の成分で中和することが必要になりますが、濃度を下げると効果が期待できません。しかし、水酸化ナトリウムのような強いアルカリ性の成分で中和すると望ましい弱酸性の状態は得られず、中和点と呼ばれる一点を境に、望ましくない強いアルカリ性へとpHが変動してしまいます。
弱酸性、弱アルカリ性の「作り方」(pH調整剤)
このようにpH値は化粧品に配合する成分の影響を受けやすく、望ましい弱酸性(もしくはアルカリ性)の範囲に安定させるためには工夫が必要です。そこで、「pH調整剤」と呼ばれる成分を使用します。以前の記事で保湿や抗酸化成分としてお馴染みのヒアルロン酸やビタミンCを弱酸性の成分として紹介しましたが、よりpHの調整に特化した成分としてクエン酸やリン酸が挙げられます。
クエン酸やリン酸はそのまま水に溶かすと一部の水素イオンが放出されるため、水溶液は弱酸性となりますが、pHが酸性から中性、アルカリ性へと変動するにしたがって水素イオンを段階的に放出します。また、いずれも1分子あたり放出可能な水素イオンを3つ持っていますが、そのそれぞれが異なるpHで放出されるため、他の成分を加えた場合のpHの変化がなだらかになります。その為、スキンケア化粧品にとって望ましい弱酸性の環境をより多くの成分との組み合わせで実現することができます。
一方、弱アルカリ性を示す成分としてはトリエタノールアミンや炭酸水素ナトリウムが挙げられます。これらは弱酸性の成分と同様の原理で、水溶液がアルカリ性から徐々に水酸化物イオンを放出するためpHを安定させます。しかし、化粧品の場合は石鹸自体が弱アルカリ性を示す為、「洗浄作用が穏やかな成分を使って皮脂を取り除く」「酸性で活性を失う成分の保護」といったより特化した目的で利用されます。
pHを「固定」する組み合わせ(pH緩衝剤)
このようにクエン酸やリン酸、炭酸水素ナトリウムが含まれた水溶液については、成分の組み合わせや保存条件などによるpHの変化は比較的穏やかですが、変化をより穏やかにするための組み合わせが存在し、「pH緩衝剤」と呼ばれて利用されています。
弱酸性の緩衝剤として代表的なものはクエン酸とクエン酸ナトリウム、もしくはリン酸とリン酸ナトリウムの組み合わせです。これらの水溶液には未分離のクエン酸もしくはリン酸、クエン酸もしくはリン酸のイオン、水素イオン、ナトリウムイオンが存在しますが、この状態で酸性の成分を加えるとクエン酸イオンが酸の水素イオンと反応して中和するため、水溶液中の水素イオン濃度はほぼ一定に保たれます。一方、アルカリ性の成分を加えると水素イオンが中和されますが、未分離のクエン酸もしくはリン酸の一部が分離して新たに水素イオンが供給されるため、同様に水溶液中の水素イオン濃度はほぼ一定に保たれます。
一方、アルカリ性のpH緩衝剤としては炭酸水素ナトリウムと炭酸ナトリウムの組み合わせ(通称でセスキ炭酸ナトリウム)が挙げられます。この水溶液には未分離の炭酸水素ナトリウム、炭酸イオン及びナトリウムイオン、水酸化物イオンが含まれますが、アルカリ性の成分を加えると炭酸水素ナトリウムの水素が分離して水酸化物イオンを中和し、酸性の成分を加えると炭酸イオンが水素イオンを中和します。そのため、同様に水溶液中の水酸化物イオン(水素イオン)濃度がほぼ一定に保たれます。
pH調整剤や緩衝剤、身体には影響ないの?
このように製品中のpHの設定、維持に重要な役割を果たしているpH調整剤及び安定剤ですが、一部で不要な添加物として、安全性への疑問が提示されています。これらの成分が利用されている製品を長期間使い続けても大丈夫なのでしょうか。
基本的にpH調整剤、緩衝剤については十分に安全性が確認されており、他の用途でも使われている成分が大半です。例えばクエン酸に関しては調整剤としての役割の他に、殺菌や収れん作用の目的でも利用されています。また、リン酸に関しては食品に豊富に含まれ、食品添加物としてもお馴染みです。肌の状態によっては酸性、アルカリ性で若干の刺激を感じることがあるかもしれませんが、普段使いで問題を感じていなければ特に気にしなくても良いでしょう。安心して利用できる製品を作り続けるためには、添加するメリットがほんの僅かのデメリットを上回ります。
ベストコンディションを保ち続けるのはどんな分野であれ、とても大変なことです。毎日気持ち良く生活を送ることができるのは、普段あまり表に出ない方々や、少しだけ添加されている成分のお陰であった、ということが少なくありません。時にはそんな「支える」立場の方々の活躍にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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